韓国の歴史ドラマに登場する19代国王の粛宗(スクチョン)とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
- 文武両道の名君
- 庶民の暮らしに寄り添った
- 王妃と側室の争いには勝てなかった
各ドラマでは、上記のような出来事を中心に描かれていますが、今回は19代国王の粛宗(スクチョン)の素顔にフォーカスしていきたいと思います!
19代国王の粛宗(スクチョン)とは?
19代国王、粛宗(スクチョン)の紹介
粛宗は、朝鮮王朝の19代目の国王で、1661年に生まれました。
彼は、政治的に非常に有能で、実務に長けた指導者として知られています。粛宗は、若い年齢で国王となり、その治世は多くの変化と発展を見ました。
粛宗はどんな性格だったの?
粛宗は、感情が豊かで合理的な思考を持つ人物でした。彼は母親の明聖王后に似ており、物事を冷静に判断する能力を持っていましたが、時には激しい感情を表に出すこともありました。
彼の性格は、彼の政治スタイルにも反映されており、自分の意見に固執しながらも、鋭い洞察力を持っていました。
粛宗が治めた時代の背景
粛宗が即位した当時、朝鮮は清の侵略の影響から完全には回復していませんでした。
彼は、農業の発展と商業の奨励に力を入れ、庶民の生活向上に貢献しました。また、国防にも注力し、国の安全を守るために城を築き、軍備を強化しました。粛宗は、党派間の争いを王権の強化に利用するなど、政治的にも非常に巧みでした。
粛宗の治世は、朝鮮王朝の歴史の中でも特に重要な時期であり、彼の政策とリーダーシップは、その後の朝鮮の発展に大きな影響を与えました。彼の統治は、朝鮮の歴史において、強力な統率力と改革の精神を持った指導者として記憶されています。
女性問題が絶えなかった粛宗(スクチョン)
粛宗は朝鮮王朝の王様で、彼の治世は多くの人に尊敬されていました。しかし、彼の私生活はとても複雑でした。特に、王妃や側室との関係は、たくさんの問題を引き起こしました。
粛宗の複雑な女性関係
粛宗は、王妃と側室の間で起こる争いを止めることができませんでした。
彼は時にはその争いに火をつけることさえありました。1689年、彼は突然、王妃だった仁顕王后を廃位し、側室のチャン・ヒビンを新しい王妃にしました。しかし、5年後、彼はまた心変わりして、チャン・ヒビンを側室に戻し、仁顕王后を王妃の座に戻しました。
王宮で働いていたチャン・ヒビンは、粛宗の母親によって追放されましたが、後に王妃の助言で王宮に戻ることができました。しかし、彼女は王妃に感謝するどころか、ますますわがままになりました。
相思相愛だったチャン・ヒビンを捨てトンイに心変わり
1688年、チャン・ヒビンは息子を出産し、粛宗は彼女を再び王妃にしました。しかし、その幸せは長くは続きませんでした。なぜなら、有名な時代劇『トンイ』の主人公である淑嬪・崔氏が現れ、粛宗の心を奪ったからです。チャン・ヒビンは冷遇され、淑嬪・崔氏が新たな寵愛を受けるようになりました。
淑嬪・崔氏は、仁顕王后を王宮に戻すよう粛宗に願い出ました。粛宗はこれを受け入れ、1694年に仁顕王后を再び王妃にしました。しかし、チャン・ヒビンは諦めず、自分の息子が王になるために、仁顕王后に呪いをかけました。その結果、仁顕王后は亡くなり、チャン・ヒビンは死罪にされました。
この話は、王宮の中での権力と愛情の複雑な物語を示しています。チャン・ヒビンもまた、粛宗の決断によって人生が大きく変わった一人です。彼女もまた、粛宗の被害者だった…という説もあるほどです。
粛宗(スクチョン)の家系図は?妻や側室、息子の名前は?
粛宗(スクチョン)は、朝鮮の第19代国王で、1661年9月8日に生まれ、1720年7月13日に亡くなりました。
粛宗は4人の正室と5人の側室を持ち、6男2女の子供をもうけました。正室の中では仁敬王后が最初の王妃であり、2人の女の子をもうけましたが、早世しました。その後、仁顕王后と仁元王后が王妃となりましたが、どちらも子供はいませんでした。
側室の中で、禧嬪張氏は一時王妃になりましたが、粛宗が後ろ盾の南人を粛清したため、側室に降格しました。
禧嬪張氏との間には2男をもうけ、一人は李昀(イ・ユン)で、後の第20代国王・景宗です。もう一人の息子は淑嬪崔氏(トンイ)との間に生まれた李昑(イ・グム)で、後の第21代国王・英祖です。
粛宗の治世は、党派争いが激しく、王権を強化するために「換局」政治を3度行いました。粛宗の政治手法は、時に冷酷と評されることもありますが、民生安定と経済発展に貢献した業績も評価されています。
19代国王の粛宗(スクチョン)が登場する韓国ドラマ
粛宗は、朝鮮王朝の権力闘争や、粛宗の愛情をめぐる女性たちの争いを描いたものが多く配信されています。
具体的に、粛宗はどんな風に描かれているのか、ドラマごとに解説していきます。
トンイ
トンイは、粛宗の側室である張禧嬪(チャン・ヒビン)を主人公としたドラマです。粛宗は、張禧嬪の母親である淑嬪崔氏(スクピンチェシ)を寵愛していたため、張禧嬪は幼い頃から宮廷で育ちます。しかし、淑嬪崔氏が亡くなった後、張禧嬪は宮廷から追放されてしまいます。その後、張禧嬪は宮廷に戻り、粛宗の寵愛を得て、禧嬪に昇格します。しかし、張禧嬪は、粛宗の正室である仁敬王后(インギョンワンフ)と対立し、宮廷内で権力争いを繰り広げます。
イ・サン
イ・サンは、粛宗の息子である英祖を主人公としたドラマです。
英祖は、張禧嬪の息子である景宗が亡くなった後、王位を継承します。英祖は、張禧嬪の残した勢力を排除し、朝鮮王朝を中興させます。
ヘチ・王座への道
このドラマは李氏朝鮮の時代を舞台にしており、粛宗の次男であるイ・グムの物語を中心に描かれています。
主人公のイ・グムは、低い身分の母を持つ不遇の王子として描かれ、王位を巡る派閥争いや権力の腐敗に立ち向かいます。役人の不正を裁く機関「司憲府」を象徴する「ヘチ」という伝説上の生き物にちなんで名付けられています。
「ヘチ・王座への道」は、正義を貫く主人公とその仲間たちの改革と逆転劇を描いた英雄時代劇です。
まとめ
今回は、19代国王の粛宗(スクチョン)にフォーカスしてご紹介しました。史実やドラマの設定から、粛宗には以下のような素顔が見えてきました。
- 物事を冷静に判断する能力があった
- 時に激しい感情を隠しきれない部分もあった
- 浮気性だった可能性
彼の治世は、朝鮮建国以来、党争が最も激しい時期にあたり、政治的な対立が特に顕著でした。また、粛宗は経済発展にも貢献し、商業活動を支援するために常平通宝を作り、広く使用するよう奨励しました。
彼の時代には、社会が安定し、経済が発展する基盤が築かれました。粛宗の在位期間は46年に及び、その治世は朝鮮王朝の中でも長期にわたるものでした。
粛宗の素顔を知り、改めてドラマを見てみると、また違った面白さに出会えるかもしれません!