本能寺の変と明智光秀の死因についてご紹介します。
天海は徳川家康の側近であり、朝廷政策や宗教政策に深く関与していました。彼の存在は、本能寺の変と光秀の行動にどのような影響を与えたのでしょうか?
そもそも明智光秀ってどんな人?
明智光秀(あけち みつひで)は、戦国時代の武将であり、織田信長の家臣でした。
彼は1568年に信長に仕え、信長の重要な軍功を立てました。しかし、1582年に本能寺の変と呼ばれる事件を引き起こし、信長の命を奪いました。光秀はその後、短期間ながらも一国の支配者となり、独自の政権を築こうとしましたが、織田家の家臣や他の戦国大名によって討たれました。明智光秀はその行動や思想から、歴史上重要な人物の一人とされています。
明智光秀の死因とは?
明智光秀の死因については、諸説ありますが、一般的には山崎の戦いで脱出を図る途中で命を落としたとされています。
天正10年(1582年)6月13日、明智光秀が織田信長を討ち、本能寺の変の知らせを聞いた羽柴秀吉は備中高松城の攻城戦を中断しました。その後、光秀軍と秀吉軍の戦いは山崎(現在の京都府大山崎町)で行われました。光秀軍は約1万6000人、秀吉軍は4万人の兵力で対峙。この場所は西から京都に迫る敵を防ぐための重要な位置であり、決戦の場となったのはその理由によると考えられます。
戦闘が始まると光秀軍は秀吉軍に押され、約1時間半の激戦の末に秀吉軍の勝利となりました。光秀は一度勝龍寺城に逃げ込みましたが、坂本城を目指して脱出を図る途中で命を落としました。
明智光秀の妻の死因
光秀の妻・明智熙子は天正4年11月7日(1576年11月27日)または6月7日に亡くなりました。
享年は46または36、42とも言われています。彼女は光秀の重病時の看病疲れが原因で病死したとされています。
明智家の菩提寺である大津市の西教寺には「病死」と伝えられておりますので、病死説が有力です。明智光秀は過労で倒れたこともありましたが、回復後に熙子が看病疲れで倒れてしまいました。光秀もまた吉田兼見に祈祷を依頼しました。しかし、残念ながらこの年に明智熙子は亡くなってしまいました。
明智光秀の母親の死因
天正3年、黒井城の戦いのこと。
光秀は波多野氏に和平を提案しましたが、疑われました。そこで光秀は母のお牧の方を八上城に人質として差し出して降伏しました。
波多野氏はこれを受け入れましたが、信長が約束を破りました。信長の行為に怒った八上城の残党はお牧の方を殺害しました。光秀は信長の行動に深い恨みを抱き、これが本能寺の変の原因となったと言われています。
明智光秀が敗れた山崎の戦いとは
山崎の戦いは、天正10年(1582年)6月2日に発生した本能寺の変を受けて、6月13日(西暦7月2日)に京都府乙訓郡大山崎町に位置する山崎で行われた戦闘です。
この戦いでは、羽柴秀吉率いる軍勢が備中高松城の攻城戦から戻り、明智光秀率いる軍勢と激突しました。この戦いは古くから天王山の戦いとも呼ばれ、現代では山崎合戦として知られています。
光秀の敗因は複数あります。
まず、兵力の差が挙げられます。秀吉の動きが予想をはるかに上回る迅速さであり、秀吉が中国平定のために信長軍の主力を率いていたこと、周辺勢力の支援を受けられなかったこと(特に細川・筒井両氏といった畿内の有力大名)、また、光秀が近江方面に兵力を分散させていたことなどが影響しています。
結果的に、光秀は兵力を十分に揃えることができず、京都と西国を結ぶ重要な地点である山崎での決戦を強いられる状況に立たされました。一方、羽柴方にも将兵の疲労が心配されましたが、総合的に見て戦略的な段階で既に勢力の優劣は決まっていたと言えます。
実は生き延びて「天海」と改名していた?
さて、そんな明智光秀の悲運な人生の中で「実は入れ替わって生きていた」囁かれているのが、僧・天海の存在。
天海(てんかい)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての天台宗の僧であり、大僧正です。
彼は徳川家康の側近として活躍し、江戸幕府初期の朝廷政策や宗教政策に深く関与しました。家康は天海を信頼し、神号や葬儀に関する遺言を彼に託しました。
明智光秀=天海だった?
天海は自身の出自について弟子たちには語らず、その正体については諸説があります。中には、天海が明智光秀として生き延びたという説も存在します。
この説が囁かれた理由は、天海のお墓が明智光秀の城にあったということ、二人は同じく信仰を共にしていたからです。
まとめ
天海は徳川家康の信任を受け、朝廷政策や宗教政策に関与した重要な存在でした。
彼は本能寺の変の時にも関与し、光秀の行動に影響を与えた可能性があります。本能寺の変と光秀の死因を理解するためには、天海の存在を考えることが重要です。彼がどのような役割を果たしたのか、その意味を探求することで、歴史の一端を明らかにすることができるでしょう。